ニイハオ中国(つばめ)

戸田ゼミコラムのアーカイブです。このコラムはすでに連載を終了されています。

義母を失った哀しみは
今も癒えないけれど、
いっぽうである種の「開放感」を感じているのも
事実である。

その「開放感」とは、

「ああ、これでやっと、自分の好きな時に
 好きなものを作って食べられる。
 自分の生活を自分で作っていける・・・」

というもの。

2004年に中国人の夫と結婚し、
夫について中国各地を転々とした後、
2008年から北京で
義父母との半同居生活が始まった。

つばめの本当の気持ちは、
義父母と離れて住みたかったのだが、
諸事情からそれが叶わず、
義父母と同じアパートの、
同じ単元の6階に住むことになり、
毎日の食事も昼、夜と1階に下りて
義父母とともに取ることになった。

つばめは食事を作ることを鼻から期待されておらず、
料理はすべて義母が作ってくれ、
つばめは食べるだけ。
せめて後片付けを、と台所に立つと、
今度は義父が飛んでくる。
つばめはなーんにもすることがなく、
楽といえばこの上なく楽ちんな生活だが、
つばめの心の中には、

「これはつばめが望んでいることではない、
 仕方ないからこの状態に甘んじているのだ」

というひねくれた気持ちが常にあった。
そのため、半同居生活となったこの6年間、
いい嫁になろうという努力を
全くといっていいほどしてこなかった。

しかし今、いつも誠心誠意、
私たちのためを思ってくれていた
義母のその温かい心を思うにつけ、
自分はそれだけ義父母のことを思って
尽くしていただろうかと振り返り、
自分は悪い嫁だったと、
義母に「ごめんなさい、許してください」
と謝りたい気持ちでいっぱいである。

そういう気持ちは大いにあるにせよ、
つばめからしてみると、
何から何までおんぶにだっこの生活が
苦痛でなかったといえば、
それは嘘になるだろう。

つばめには何の役割も与えられず、
ただ子供を見ることだけが
つばめに課された唯一の仕事であった。

とはいえ、子供のことについても
つばめに決定権があるわけでもなく、
上の子が生まれた時には、
子供をお風呂に入れるかどうかということからはじまり、
子供に何を着せるか、何を食べさせるか、
出かける時間など、あらゆることにおいて、
義母の意見を無視することはできなかった。
たまに1階で子供をしかったりしようものなら、
つばめのほうがたしなめられたり。。。
結局つばめの一存で決められることなど
何もなかったのである。

もちろん、義母は心から
子供のことを思って言ってくれている。
それは重々分かっているのであるが、
何事においても、母の自分に決定権がない、
そこのところに非常にストレスを感じていた。
子供がまだない時は義母と仲良くやっていたつばめも、
子供のこととなれば時に我を通し、
義母とぶつかったり、嫌味を言ってしまったり、
ということもあったので、
義母にとってもストレスはあったに違いない。

結局それは、だれが悪いということではなく、
ひとつ屋根の下に主婦(あるいは女主人)が
二人いるということに原因があったと思う。

結婚した女性というのは、
家庭のことにおいては自分が決定権を握りたいと、
誰もが思っているのではないだろうか。
食事作りにしても、子育てにしても、
自分のやり方、考え方が
正しいとは限らないけど、
自分がどうするのか決めたい。
そうじゃないと責任だって持ちようがないではないか。

つばめは結局、
主婦であろうとすることを放棄したので、
義母と深い軋轢があったわけではないが、
それでも、女性だからこそ
同じところにこだわってしまう、
というところがなかったとはいえない。

おんぶにだっこの生活からの決別。
義母の人間としてのやさしさ、温かさは
今も恋しくてたまらないけれど、
これからは自分で自分の生活を作っていけるのだという
小さな希望も胸にともっているつばめです。

昨年11月時点で、余命4か月から1年と宣告されていた
義母だったが、結局宣告から3か月、
抗がん剤を打ってから
わずか3週間で帰らぬ人となった。

義母の直接の死因は、
腎臓の機能低下ということのようだが、
家族の誰もが感じていたのは、

「抗がん剤を打ったことで
 全身の器官にダメージを与えた」

ということ。
抗がん剤を打つ前は比較的元気で
普通の生活が送れていたのに、
打ってから数日間、一日に何度も呼吸困難が起き、
そのまま呼吸が止まって死ぬんじゃないか
というような目にあったり、下血も始まった。
最後のほうは鼻からも血が出ていたようで、
一体、どこまでが抗がん剤によるダメージで
(食事が取れないことによる衰弱も含め)、
どこまでが肺がんやその転移によるものだったのかは
つばめには分からないが、

「もし抗がん剤を使わなかったら、
 もう少しは小康状態を保っていられたのではないか」

という思いは、家族のだれもが
口には出さないが心に持っているのではないかと思う。

しかし、翻って考えてみると、
がんの末期症状で、ものすごい痛みや苦しみに
対峙しなければならなくなるよりかは、
このほうが、義母にとってよかったのかもしれない。
今となってはもう、何を言っても意味をなさないけど、
これでよかったのだと信じることだけが
家族の心のなぐさめである。

ただ、思っていたよりも義母の死が早かったこと、
そして、義母がどんなにやつれていても、

「これは抗がん剤の副作用なのだ、
 これを乗り越えればまた回復していくのだ。」

と根拠のない楽観さを持っていたつばめ
(たぶん他の家族も)には、
いろいろな後悔だけが苦く心に残っている。

なぜ毎日ベッドルームに入っていって
義母と話をしたり、マッサージをしてあげたり
しなかったのか。
なぜ義母に直接、食事を食べさせてあげなかったのか。
なぜ温かいうちに、あの白い手を握らなかったのか。。。

「おかあさん、大好き」とか、「ありがとう」とか、
「ごめんなさい」とか、
義母に話したいことはたくさんあった気がするのに、
抗がん剤を打って以来、
ほとんど義母と接することがないまま、
義母は逝ってしまった。

義父、義母の妹二人に夫と、
肉親がこれだけ多くお義母さんのお世話をする中、
つばめには何か遠慮があって、
自分で勝手に義母の部屋に入っていって、
お母さんに食べ物を食べさせてあげるとか、
話をしにいくとかいうのが、
なんとなくはばられたのだ。つい、

「お義母さん疲れないかな、
 つばめの顔見るより休みたいんじゃないかな」

とか、

「お義母さんは、つばめよりも、義父や
 実妹さんたちにお世話されるほうがいいに違いない」

とか思えて遠慮がちになり、
確かに義母はそれでよかったかもしれないが、
つばめ自身の義母を思う気持ちは満たされぬまま、
最後の死に目にも会えず、義母は逝ってしまった。

今、義母の姿を思い出す時、
心に広がるのは、ただ温かさのみ。
いつも家にいて、おいしい料理を作って
笑顔で家族を迎えてくれた
母のぬくもり、温かさ。
失ってはじめて、そういったものの
ありがたさというのを、
しみじみと感じている。

ぜんざいを食べた日の翌日から
義母は食事を全く受け付けなくなった。

半昏睡状態のような感じで、
尿も全く出ないのはおかしいということで、
その日の午後、救急車を呼んで、
病院へ向かった。

夫から話を聞いて、

「また入院したらしばらく会えないから」

と、できれば子供を連れて1階に下りて
義母に一目会いたいと夫に頼んでみたが、
もう会っても分からないから、
と断られた。

義母は病院のICUに入ったが、
まもなく医師から、もう覚悟をしてください、
と告げられた。

その晩は夫が病院に泊まり込んだが、
すでに手の施しようがなく、
一応透析してできるだけ延命という手もあるが、
すでに昏睡しているところへ透析をしても、
よけいに患者を苦しませることになりかねないし、
また数日後に透析しなければならなくなるだけ、
という話で、透析治療も放棄。

夫によると、すでに入院着から、
家から持って行った普段着に着替えさせたとのこと。
普段着ている服があの世へ旅立つ死に装束なのだ。
もう全く回復の見込みのないようすに、
つばめも言葉が出なかった。

2日目の夜も、夫が泊まり込んだが、
日付が変わった夜明け前に
夫は帰ってきた。

こうして、義母は帰らぬ人となった。

つづく。

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